明治大正の大政治家、山縣有朋と近代の作庭に大きな影響を与えた七代目小川治兵衛(植治)が出会った無鄰菴(むりんあん)
山県は江戸時代以前からの京都の庭に飽き足らず、「どうも京の庭は暗くて、古くさくていかん」という考えの下、
小川治兵衛とともに日本庭園に新しい風を吹き込みました。自然を採り入れた開放的な庭――。
山県と小川治兵衛が手掛けた庭は、どこも明るく、伸びやかな特徴を備えています。
この写真は、「視点場」(最も庭の眺めが良い場所)とされる飛び石から観た庭の風景。
この庭の主役はあくまでも東山という位置付けで、東山は借景という概念を超えて、庭の一部になっています。
東山が庭の一部に切り取られたことで、庭はさらに雄大なスケールに。
実際の無鄰菴は地図を見てもらうと分かりますが、その敷地は通りに挟まれたごく狭い一角を占めるだけ。
近くの動物園と比べると、いかに限られた場所に作られたかが分かります。
南禅寺周辺には当時、広大な土地が残っていたのに、敢えてこの地を選定したことが山県の非凡さの現れと評価する見方もあるようです。
季節ごとに変わる主屋から眺める庭。まさに額縁の絵のごとく美しく、街中とは思えない別世界です(別料金で抹茶も頂けます)。
小川治兵衛、山県有朋の庭に欠かせない「水の流れ」。山県の構想を具体化した小川治兵衛の非凡さにも感動します。
小川治兵衛の作庭ではないですが、山県の小田原の別邸、古稀庵の庭も水の流れが印象的でした。
無鄰菴の庭がつくられた当時(明治29年)、この開放的な雰囲気の庭は画期的だったのではないでしょうか。
このページを作りながら昔と今の写真を見比べていて、
ふと「以前は(写真中央の小さく見える)石灯籠が松で隠れていた」 ことに気付きました。
今回訪れて、どこか印象が違うと思ったのは、この灯籠の周囲が微妙に変わっていた(?)ことも影響しているのかもしれません。
もしそうだとしたら、たった一基の灯籠の存在感と松の剪定でここまで庭の雰囲気が変わることに改めて驚きです・・・・。
無鄰菴には、琵琶湖疎水から採り入れられた水は滝として流れてきます。
小川治兵衛の作庭と、琵琶湖疎水が供給する豊かな水が南禅寺界隈の別荘群とその名庭をつくり出す原動力になりました。
山県と小川治兵衛の出会い、そして疎水がなければ、これらの別荘群と名園も生まれていなかったかもしれません・・・・・。
薮内流の「燕庵」を原型として作られた茶室
茶室周りの露地と風格のある石灯籠と蹲踞(つくばい)
苔庭に建つこの可憐な灯籠の姿に魅せられました・・・・・。
無鄰菴のもう一つの主役は「苔」。どこも美しく手入れされています。個人的な感想ですが、
植彌加藤造園が無鄰菴の運営を受託してから、以前よりも庭がさらに綺麗に整備され、印象が変わった気がします。
夏の無鄰菴庭園。芝生も木々も青々と生い茂り、他の季節の無鄰菴とは全く別の趣
→山県有朋と無鄰菴
小川治兵衛は山県有朋や陸奥宗光など大物政治家に気に入られたようで、陸奥の邸宅でも庭を手がけています(古河庭園)。
山県の邸宅、別荘としては、他に高瀬川二条苑(第二無鄰菴)、小田原の古稀庵、東京・目白台の椿山荘が有名です。
ただ私感ですが、小川治兵衛本来の才能、美的感覚は、何有荘や流響院、十牛庵、白河院など
政治家よりも民間(実業家)が施主の庭でさらに活かされている気もします。
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